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回復の主人公はあなた自身
(1)人間関係の問題
嗜癖(しへき=英語のaddiction〔アディクション〕の日本語訳)には物質嗜癖(アルコールや薬物にはまる)、プロセス嗜癖(ギャンブルや買物、仕事や窃盗などの行為のプロセスにはまる)、そして人間関係嗜癖(恋愛やセックス、人間関係にはまる)がある、アディクション関係の本を見ると、このような説明によく出会います。そして、たいていの場合、物質嗜癖やプロセス嗜癖の根底に位置しているのが人間関係嗜癖だという指摘が続きます。人間関係嗜癖という土台の上に物質嗜癖とプロセス嗜癖という二つが並んで乗っかっている、こうしたイメージですが、今回はこのあたりの問題を考えてみたいと思います。
アルコール依存やギャンブル依存の場合は問題が目に見える形(酩酊・内臓疾患、浪費・借金)で表面化しますが、人間関係嗜癖の場合ははまっている状態が美化や賛美の対象にされたりもしますので、その分、問題の所在が見えにくいかもしれません。ただ、人間関係嗜癖という言葉を「人間関係の問題」という言葉に置き換えてみますと、「なるほど」と思えるのではないでしょうか。といいますのは、私たち人間は社会的動物であり、他者との関係の中で人間としての命の営みを続けていますので、依存症の方にかぎらず誰もがなんらかの形で人間関係の網の目の中に組み込まれているからです。
このようなアプローチ、つまり嗜癖問題を人間関係の問題との関連で捉えようとするアプローチは、依存症からの回復に取り組む上で役立ちそうです。といいますのは、一つにはこうしたアプローチは、人間関係における困難が嗜癖問題として表面化しているのではないかという視点を与えてくれるからです。そしてもう一つ、人間関係の問題を切り離したままで嗜癖問題に取り組んだ場合、かりにアルコール依存やギャンブル依存を離れたとしても、アルコールやギャンブル以外の別の依存対象にはまったり、場合によっては次から次へと依存対象を渡り歩くといったことも起こりかねない、そうした視点を私たちに与えてくれるからです。
(2)自助グループ
アルコール依存は医療機関よりも自助グループのほうが回復しやすいとよく言われます。なぜでしょうか。たとえば医療機関が飲酒による肝臓疾患の治療に取り組み、肝機能を回復させ退院させたとします。その後はどうなるのでしょうか。その患者は再び飲酒を始め、肝臓を壊し再び入院治療、この繰り返しですと皮肉なことに医療機関の治療は飲酒をして肝臓を再び壊すように治療していることになります。
AA(アルコホリック・アノニマス)のような自助グループでは、医療機関のような薬物治療が行われるわけではありませんが、医療機関にはないものがあります。それは人間関係のあり方に関わるものです。自助グループは、医者(専門家)と患者(素人)という上下や格差のある関係ではなく、お互いが同様の困難を抱えて苦しんでいる対等な立場であることを前提として運営されます。ですから、そこには対等な人間関係をつくることへ向けた様々な知恵や工夫が蓄積され、また組み込まれています。自助グループに組み込まれているこうした人間関係に触れることが回復への道を大きく開いているのではないか、そのように思えます。
では、自助グループでは対等な人間関係をつくり維持するためにどのような工夫が組み込まれているのでしょうか。それは一言でいえば、安全性の確保と言えるかもしれません。アノニマス(匿名)ということ、それは自分の名前も肩書きも開示を要求されないということです。つまり、素の自分のままでOK、同様に依存症問題に苦しんでいる者として受け入れられるということです。別の言い方をしますと、身分や肩書きなどによる評価を土台とした関係とは別の関係が築かれようとしているということです。また、言いっぱなし・聞きっぱなしというルールも、否定したり評価したりする関係性によって参加者が傷つく危険性を防いで、参加者の安全を守るための工夫と考えることができます。
こうした自助グループに組み込まれている関係性から私たちの日常の人間関係を振り返りますとき、私たちがいかに評価というフィルターを通して他者との関係を築いているかということに気づかされるのではないでしょうか。そういう意味では依存症の方々は、評価というものを土台として形成される人間関係の危うさに警鐘をならすカナリヤなのかもしれません。
(3)不在(空虚)の埋め合わせ
ではギャンブル依存の問題を人間関係の問題とのつながりで考えるとどのようなものが見えてくるのでしょうか。たとえば、パチンコやパチスロの場合、プレイヤーとしてゲームをできるだけコントロールしようとするのではないでしょうか。うまくコントロールできた結果、手に入るのが「当たり」や「勝利」になります。勝利は、玉やメダルが換金されれば、お金という目に見える形になります。その際、その勝利の裏づけとして、自分のコントロール力、うまくゲームをコントロールできた自分の有能さが実感されているのではないでしょうか。
私たちはめったに行けない海外旅行に出かけた後、写真や土産を見て、かの地にいたときの自分を思い浮かべたりします。こうした写真や土産は、自分が今はかの地にいないという不在(空虚)を埋める機能を果たしている、精神分析系の方がそんな指摘をされているのを読んだことがあります。これに倣って言いますと、次のように考えられるのではないでしょうか。ギャンブルで手に入れたお金が自分の優れたコントロール力や有能感を実感させてくれるのだとしますと、日常の人間関係において自分のコントロール力や有能感の不在(空虚)に直面したとき、ギャンブルの勝利によってもたらされるお金によって、その不在(空虚)が埋め合わされようとする、と。こうした不在の埋め合わせにギャンブルが役立ったことがあれば、その時の心地よさを求めてギャンブルの深みにはまってゆく、ギャンブル依存症にはこうした側面もあるのではないでしょうか。
人間関係におけるコントロール力や有能感、これはいわば優位−劣位、支配−被支配といった力比べですので、パワーゲームが展開されてゆくことになります。そうしたパワーゲームが評価を土台とした関係に支えられていることは言うまでもありません。このようなパワーゲームに傷つき、殺伐さを感じていれば、自助グループに組み込まれている人間関係は砂漠のオアシスのように感じられるのではないでしょうか。
(4)関係性を作り直す
以上のような点を踏まえますと、ギャンブル依存症からの回復は単にギャンブルから離れればいいといった問題ではなく、人間関係を作り直す、そうした問題として捉え直すことができるのではないでしょうか。それまでの人生において身に着けてきた人間関係とは別の関係を築く作業、これはたとえて言えば新たな言語を習得するようなものですので、手を着けたら即座に結果がでるといった類のものではなく、地道な努力を根気よく積み重ねてゆくことが必要とされます。ただ、即座に結果が出ない領域、これはギャンブルとは全く対極に位置するものですので、ギャンブル依存症の方にとっては最も苦手とする領域、かなり高いハードルと感じられるかもしれません。
そこで回復への道を歩むための援助や協力が必要とされてきます。語学学習の例だと、語学教師や語学教材が必要とされるわけですが、それに相当するのが家族、相談機関や医療機関、あるいは自助グループ(これらは「援助資源」と呼ばれます)ということになります。ここで注意しておきたいのは、回復の主人公はどこまでもギャンブル依存症の当事者であって、援助資源ではないということです。野球にたとえれば、プレイするのはどこまでも選手であって、コーチやスタッフではないということです。コーチはプレイヤーに技術を教えたり指導をするという形で援助をすることはできますが、プレイヤーに代わってプレイすることはできません。コーチやスタッフという援助資源を有効に利用しながら自らの技術を磨いてプレイするのはプレイヤー自身であるように、ギャンブル依存症からの回復というテーマに取り組む主人公(プレイヤー)はギャンブル依存症の当事者自身であり、援助資源はそのテーマに取り組むためのチームメイトでしかありません。回復に向けてチームメイトの力をどのように用いて技術を磨き、回復というテーマに取り組んでゆくか、それを決めるのは主人公であるあなた自身なのです。
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